共有することの喜び
人は自分の経験や考えなどを他人と共有することに強い喜びを覚える生き物です。
自分の特別な経験は知人、友人、家族にすぐに伝えたくなります。共有することで自分の経験の価値は増し、その人たちからの大きなリアクション(すなわち共感)があればそれはさらに増大します。
親しい人との食事は素晴らしい経験の共有そのものです。美味しい食事、美味しい飲み物、楽しい会話があればその食事の機会は何事にも代えがたい価値を持ちます。
現代においてはPCやスマホで容易に他人との共有が可能です。人気のあるSNSアプリではすべからく、「シェア」や「いいね」などの共有、共感の機能があります。
小さい子どもたちは、いつも父母や保護者などに対して「見てみて!」と自分のしたことや置かれた状況に注目を求めます。これもやはり、経験の共有により、自分の喜びを倍加させたい、父母たちにもこれを共感してもらいたいとの表れです。
このように、人の営みにおいて、共有することはとても大きな意味を持ちます。共有なき人生は虚しいと言いきったら言い過ぎかもしれませんが、それくらい重要な意味を持つと思います。
最近は、自粛ばかりかもしれませんが、やはり人が人らしく生きていくためには共有することが不可欠です。他人と共有することで自分が自分らしく、過ごせる。そう考える今日この頃です。
繋がり、繋がる
ここ最近、本当に新しい出会いの機会や交流の場が持てないため、日々の活動や生活に変化が乏しく、固定化した状態が続いてしまっています。
個人的にはこのような状況、全く好まないのでとてもフラストレーションが溜まっている状態です。多くの方もきっと同じだと思います。
そうした中、昨日はとあるきっかけで新たに知り合った方といろいろなお話しをすることができました。興味深く聞いていると、共通の知人がいることも分かり、その方の話題にもなりました。
人の営みはすべからく他人との繋がりを作ることに尽きると述べた人がいましたが、まさにそのとおりだと感じます。
人が人である以上、人との関係や繋がり無くして社会は成り立ちません。
「今は我慢」
それも分かりますが、我慢だけでは人間らしく生きていけません。
我慢と同時に持てる繋がりも大切にしたいとつくづく感じました。
雑談は無駄ではない~雑談の効用~
コロナのために在宅勤務が増え、外出や集まりも控え続けた状態が全国的、全世界的に広がっています。
ある意味で「無駄」の無くなった生活状況とも言えるのですが、「無駄」の代表格のように思われがちな「雑談」もまたコロナのために失われています。
在宅勤務になればちょっとした雑談もありませんし、外出も集まりもなくなればやはり雑談は生じません。
しかし、ここ最近、このような雑談が実は重要だったと見直す風潮も生じて来ています。
というのも、一日中在宅勤務をしていると、他人との接点が希薄になり、接点をもったとしても「仕事のこと」だけになりがちだったりして、結果、うつ病を発症したり、創作的な作業が進まなかったりするのです。
当然、仕事に限りません。家庭内では雑談があり得ても、家庭外の人間関係が希薄になると、個人が孤立し、社会的生き物である人間が人間らしく生きられなくなるのです。
そのため、企業では、あえての雑談の時間や場をオンラインなどで設けるなどの工夫を凝らしたりしています。
私も雑談の効用は以前からとても大切だと感じていた一人なので、事務所内であえて雑談をするきっかけを作るよう意識しています。
また最近では、スマホアプリのCLUB HOUSEの人気がうなぎ登りです。このアプリは個人同士の雑談などに用いるのに本当に便利で、コロナの中で他人との接点や雑談の機会に飢えている世界中の人々にウケるのはある意味当たり前といえるものです。
結局、人が人である以上、他人との接点を欠いた生活は息苦しさしか残りません。
「効率」ばかりを追い求める社会もまた持続可能性に富んだものとはなりません。
一見すると無駄の代表のような雑談から生まれたヒット商品も数知れません。
その意味で私たち人間は大いなる無駄の中に生きていると言っても過言ではないと思います。
なので、今日もみなさん、大いに雑談をしましょう。それが健康に生きる秘訣だと思います。
嫌いな言葉
「泣き寝入り」という言葉が嫌いです。
広辞苑には「不本意ながらそのままにしてあきらめること」とありますが、何か困難やトラブルにあったとしても、決して泣き寝入りなどせず、戦えばよい。諦める必要なんてない。
いつもそう思っています。
そうは言っても、いろいろな事情で諦める他ないと言われる方もいます。
でも、私はそう思いません。思いたくもありません。
自分が被害に遭い、尊厳を冒され、権利を侵害されたのであれば、迷うことなく被害や尊厳の回復のため、権利の救済のために全力を尽くします。それが自分の信念です。
自分の尊厳の大切さは自分自身が一番分かっていることです。自分の権利は自分自身にしか帰属しないこと、黙っていても人が与えてくれるものでないことも明らかなことです。
なので、私は自分の尊厳や権利を大切にしたいと思っていますし、個人の権利救済、尊厳回復のためにご相談に来られた方のためにも全力を尽くしたいと考えています。
「泣き寝入り」という言葉が広辞苑から消える日が来ると、そう信じています。
美味しい牡蠣の食べ方
牡蠣の生産者の方からたくさん、生牡蠣を頂きました。
嬉しく思いながら自宅に帰り、様々な食べ方で頂きました。
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➀酢牡蠣→スライスした玉ねぎとポン酢で。
②牡蠣のソテー→溶き卵に付けてから焼いて。
③牡蠣の汁→あっさりスープと野菜で一緒に。
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どれもこれも美味しく、たくさん頂きました。
まだ残りがあるので今日はそれこそ牡蠣のオイスターソース炒めにしてみようかと思います。オイスターソースは牡蠣が主原料ですから、美味しくないはずがないですね。。。
昼食を済ませたばかりですが、もう夕食のことで頭が一杯です。
遺産分割の「期限」について
親族の死亡により生じる「相続」の問題は、遺言があれば遺言で処理し、これがなければ相続人間の遺産分割により処理をすることとなります。
相続人間で円滑に協議が進めば良いのですが、そうでない場合には協議が進まず、いつまでも相続の手続きが終わらないことがあります。
この点、相続に関するルールを定める民法には遺産分割自体の期限の定めが何もありません。その結果、未分割の遺産が何年も何十年も放置されてしまう事態が結構多くあります。
しかし、このような状態はとりわけ不動産を中心に大きな問題となります。
というのも、亡くなった方の名義のままの不動産が残されると、管理が届かず、荒れ放題となり近隣環境に悪影響が大きいからです。
そこで現在、遺産分割の期限を10年に限定する法改正が検討されています。この改正が通ると
おしぼりのご提供を始めました。
今日から、来客の方へお飲み物に加え、おしぼり(使い捨て)をご提供するようにしました。
大きめでラベンダーやシトラスの香りつきのものを選びました。衛生的ですし、ご相談やお打ち合わせの際のリラックス効果も期待できます。
さっそく本日ご来所のお客様にもご利用頂け、嬉しく思いました。
これからも何か出来ることを見つけ、より良いサービス提供に努めたいと思います。
べた褒め
今日、ある人から「べた褒め」されました。とても不意に。
あれも、これも、それにそれも、次から次へとなぜか私のことを褒め続けて下さいました。
なかなか人に褒められる機会もなく過ごしているので、このようなべた褒めを受け、躊躇しつつも「褒められるのも悪い気はしないな~」などと思いました。
せっかくここまで褒めて下さったので、褒め返し(より正確には「べた褒め返し」)をしておくべきでしたが、不意の「べた褒め」だったため、褒め返しの余裕すら失ってしまいました。
すみません。褒めて下さった方!
今度はこちらから不意のべた褒めをお返ししますので!
半日不在
久しぶりにほぼ一日、約半日、事務所を離れてあちこち行ってまわっていました。
気温も低く、風が強いこともあり、どうにも疲れた一日です。
途中、温かいうどんを食べ、英気を養いましたが、そのすぐ後に移動車両の不具合に見舞われたり、移動中にZOOM会議に参加しようと思ったらなぜか電波状態が悪かったりとあまり思うようにいきませんでした。
それでもなんやかんやで予定をこなし、無事に事務所に辿り着いたころにはもう夕方です。
暖かい事務所で少し、心を休め、残った仕事を片付けました。
いろいろ大変な日々ですが、それでも無事であることが何よりといったところでしょうか。帰って夕食を食べたらゆっくりと休もうと思います。
子どもの個性
ちょっとしたきっかけから、近所の子どもたち(小学生)に時折、勉強を教えています。
昨日は久しぶりにまたその集まりがあり、国語、算数、理科を対象として授業をしました。
当然、事前に授業内容を検討し、必要な資料や小道具を用意します。学校の教科書の内容や授業の進捗状況も確認します。
そうして授業を行ってみると、いろいろなことが見えて来て、いつも自分自身にとってもとても大きな学びになります。
例えば、掛け算九九をやらせてみると、単に早い遅いにとどまらず、九九の表のどこから解いていくかで予想外の順番で解いてみたり、作文をさせてみると、予想以上に丁寧な表現でまとめてみたり、磁石の実験をさせると興味津々の反応や「そんなの当然知っているよ」という反応を示してみたり。
本当に子どもによって千差万別で見ていて飽きることがありません。
昨日は結局、国語を二コマ、算数と理科を各一コマ行い、計180分の授業でした。
終わったころには頭も体も疲れ切っていました。
事前準備も含めてなかなか大変なのですが、子どもたちの反応は割と良いようで、結構、この勉強会を楽しみにしてくれている様子です。
そんな子どもたちの様子を見ると、また近いうちに何かやってあげたいなという気持ちになります。やはり子どもと接するというのは何事にも代えがたい喜びを与えてくれるようです。