役に立つ
子ども向けアニメの「きかんしゃトーマス」を見ていると、出てくる機関車たちの働きぶりについて「役に立つ」もしくは「役に立たない」という評価をされるシーンが良くあります。
あまり、日本のアニメでこういうシーンを見たことはないので、以前から気になっていました。
そんな中、ある日、子ども向けの教育本を読んでいたところ、「日本では『人の迷惑をかけないように』という教育がされるが、それでは子どもは人の目を気にするばかりになって萎縮する。それよりはむしろ、『人の役に立つ人間になりなさい』という教育が、子どもの自信につながり、意欲向上にもなる。」とありました。
これを読んで、冒頭の「きかんしゃトーマス」のシーンについて納得ができました。
要するに、少なくともイギリスでは、子どもに対して「人の役に立つように」との教育が施されており、それがアニメにも反映されているのだと思うのです。
そして、「人の役に立たないこと=よくないこと」なので、「きかんしゃトーマス」の中でも、「お前は役に立たない奴だ」と注意されて、ションボリするシーンがあるのでしょう。
対して、日本のアニメでは、いたずらばかりして周囲に迷惑をかける主人公をしかりつける母親、というシーンがままありますが、これもまた日本における教育方針の表れなのだと感じました。
たかがアニメと思わず、注意深く見てみると、国柄の違いが学べて非常に有益です。勉強になりました。
みんな日帰り。
早朝の便で県外に出張に行きました。
まだ暗く、目もスッキリ覚めない中、多くの人が搭乗していました。
その日は日帰りの予定だったので、日中の予定を済ませ、最終便に搭乗しました。
すると、行きの便に近くに座っていた方数名が、やはり帰りの便でも近くに搭乗していることに気が付きました。
これを見て、正直言って、日帰り出張(早朝出発、最終便帰宅)は疲れますが、「自分だけでないのだ」と痛感しました。
無事に岡山に到着し、疲れはしましたが、また明日も頑張ろう!と思えました。
旅は過程か、結果か
旅に出ると気持ちが解放され、非常にリフレッシュになります。
でも、あんまり遠い行先だと、行く前から長い移動時間が気になったりします。
かといって、せっかくリフレッシュのために旅に出るのですから、あんまり近いと盛り上がりませんし、あまり解放された感じにもなりません。
そう考えると、旅の道中は、決して単なる「移動」という意味だけでなく、私たちが
日常→非日常
にエスケープするための必要な作業なのだと思います。
時間に追われる日々の生活を離れ、ゆっくり時間をかけて旅に出ることが人にとっての最高の贅沢なのだと思います。
なので、このような過程を抜きにして、瞬時に目的地に着くことが出来ても(たとえば、超高速旅客機の実現や、どこでもドアのような装置など)、旅の楽しみは半減どころでない減少となると思います。
つい先日は、警察署から逃亡したまま自転車旅行をしていた被疑者がいました。
これはまさに、「時間をかけて日常(勾留中という身分)を脱し、非日常(自転車旅行者)という解放感」を満喫していたケースです。
当然、許されたことではありませんが、「犯人の逃走」というと、「偽名パスポートで飛行機で海外に高飛び」と思いがちですが、彼の中では「それでは日常からの解放感は薄い」とでも感じたのでしょうか。
時間をかけて非日常を満喫するという作戦に出ていたのでした。
とはいえ、非日常の解放感を味わうことは、日常を頑張っているからこそ許されるものだと思います。みなさんにも、頑張っている日常から解放されるために、ゆっくりと旅に出ることをお勧めします。
やっぱり欲しい。
人の欲は難しいですね。欲があるから頑張れる。欲があるから不正に走る。
しかも人の欲には際限がなく、通常一般の人からはるかかけ離れた次元の欲を持つ人も多くいる(カルロスゴーンさんを念頭に置いています。)。
大小問わず日々の生活は人の欲と離れて考えようもありません。
つまらないことかもしれませんが、コンビニでお弁当と温かいスープを買おうと思ったのです。
お弁当は焼き肉弁当にしたので、スープの方は単純に「野菜だけのスープ」が欲しかったのです。
でも、いくらさがしても、お肉入りのものしかありません。
ここからは勝手な推測ですが、
これらのスープのターゲットは、「野菜を中心にしつつも、お肉も食べたい」という方々なのでしょう。
今回その意味では私はターゲット外だったようです。
やむなくスープは止めて、サラダにしました。
それでもサラダの中にも「野菜+お肉」のものも多かったですね。
きっと、「ヘルシーにしつつも、お肉も欲しい」という多くの方の欲にかなった品ぞろえなのでしょう。
どんな仕事をするにしても、人の欲を離れての成功はないように感じました。
(カルロスゴーンさんは、物凄く欲が強かったために日産再建を成功させたと言えますが、その自らの欲が自らを滅ぼしたと言えそうです。)
良い眠り。
良い眠りのために意識、工夫はしていますか?
毎日のこと、健康のためなので良い眠りはとても大切です。
良い眠りは、家庭生活や仕事、対人関係にも影響すると思います。
私の場合、運動して疲れた時に、ほどほどの飲酒をして眠ると熟睡度が高い傾向にあります。
仕事で頭を使い過ぎて、そのあと飲酒して眠ると余り良い眠りではありません。
睡眠は体と頭を休めるものなので、仕事で頭を使っただけでは良い睡眠には至りにくいようです。
そして、運動してから眠りにつくと、頭もしっかり休まります。
なので日ごろから運動は大切で、週に何度かは体を動かすようにしています。
それがために日々の頭脳ワークも冴えてくると思うのです。
主観と客観
人はたいてい、自分の認識する「主観的事実」が「客観的にも正しい事実」と考えています。
そのような「主観的事実」について、他者から「それは客観的事実ではない」と批判されても容易に自分の考えを改めることはできません。
なぜなら、人間の脳が「主観的事実=客観的事実に違いない」と考えるようにできているからです。
このような脳の仕組みのために、交通事故の事故態様においても、離婚事件の夫婦ケンカの原因にしても双方の言い分は真っ向から対立します。
結果、お互いがお互いを非難し、責め立てることとなるのです。
こうなるとお互いの当事者同士での解決は不可能となるため、弁護士や裁判所と言った専門家や第三者機関が必要になるのです。
そして、裁判所では証拠に基づき確定できる事実をもって「客観的事実」とみなしています。これはあくまで神様の目で見た「真実」そのものではありません。あくまで、実在する「証拠」に基づき、裁判所が認定した「客観的事実」でしかありません。
その意味では裁判所の認定する「客観的事実」ですら、過去に起きた本当の「真実」そのものでないことが多々あります。
それでも、専門家の関与の下、中立公正な裁判所が証拠に基づき認定した事実である以上、その事実をもって争いを収束させよう、というのが我々近現代の人間の考えた紛争解決のための英知なのです。
なので、①人間の主観的事実と客観的事実には簡単に誤りが入り込むことを認識し、②お互いの認識が食い違う場合には、専門家、裁判所の関与の下で解決を図ることが合理的である、と人々が考える限りは、司法制度というものは健全な社会の構築になくてはならないものといえます。
もう、食べられません。
今年3月8日に、「もう、隠れられない。」というブログを書きました。
隠れた名店が、いつの間にか人気店になっていたお話しでした。
結局、その時も満席過ぎて食べることはできなかったのですが、つい先週、たまたま開店時間(11時30分)ジャストにその近くを通りかかったため、久しぶりに行ってみたのです。
当然、「開店時間だからすぐ入れるに違いない」との読みです。
ところが!
なんと!
開店直後から(ほぼ)満席ではないですか。
もはや超人気店です。満席の状態で待って食べるほどの時間はなかったのでこの時もまた泣く泣くあきらめました。
その翌週の今日、再度たまたまお昼ごろにそのお店の近くに来る用がありました。
さすがにこう何度も何度も満席状態が続くので今日は初めからこのお店に行くこと自体を諦めていました。
すると、やっぱり満席+行列でした。
案件が終わって午後2時ころになってもそのまま満席+行列の状態を見て、私は確信したのです。
「きっと、自分はもうこのお店で美味しい美味しい味噌ラーメンをもう食べることはできないだろう。。。」
そうなんです。
岡山では珍しい味噌ラーメンの超人気店なのでした。でも今回も店名は書きません。書いたらきっともっと、行列が伸びてしまうので!
「うどん専用」検索ツール
うどん県の香川では、ネット検索も「うどん専用」になるようです。
というのも、今日、案件で高松の裁判所に出向いた際、待合でネット検索しようと思ったら、次のような検索候補表示がされることが分かったのです。
。。。
①「う」と入力すると→「うどん」というワードが検索の第一候補に表示される。
②「うま」と入力すると→「うまいうどん屋」と表示。
「う」と打てばまずは「うどん」の県民よ。「うま」と打てば「うまいうどん」が頭に浮かぶ。
こうして、たまたま①、②に気づき、調子にのって次々、ワードを変えて試してみました。
③「おい」→「おいしいうどん屋さん」
④「まず」→「まずいうどん屋」
うーん。おいしいうどんを食べたい。当然、まずいうどんは食べたくない。そんな県民性が見えました。おいしいうどん屋には「さん」をつけ、まずいとつけない微妙な心理も、、、
⑤「ちか」→「近くのうどん屋」
ううむ。おいしい、まずいに続いて今度は、とにかく近くのうどん屋を求める県民性が伝わります!「イイネ!」
さらにさらにワードを入力すると、、、
⑥「やす」→「やすなみうどん」
⑦「たか」→「たかやうどん」
との候補表示が!
私の予想では「やすいうどん屋」とか「たかいうどん屋」が表示されると思ったのに、異なりました。
値段のことよりも「どのうどん屋か?」を重視するのが県民性でしょうか?それとも、「讃岐うどんは安くて当たり前!」なので値段を検索する県民は不在なのでしょうか??
飽き足らず続けました。。。
⑧「たに」→「谷川米穀店」
⑨「なか」→「なかむらうどん」
これは予想通りの超有名店です。いずれもすぐに候補表示されました。
こんな感じで、どうやら香川県内でグーグル検索すると、うどんのことが優先的に検索できることが分かりました。おそるべし香川。おそるべしグーグル。
*試しに倉敷の事務所に戻って同様のキーワードで検索したらまったく違うワードが候補表示されました。おそるべしGPS!ですね。。。
解放されたい
つい先日のハロウィン大騒動を見て、ここ数日ずっと考えていました。
「どうして人はハロウィンで大胆な仮装をし、大胆な行動を起こすのか?」
いろいろ考えましたが、今の私の結論は
「解放されたいという心理が、仮装を通じて実現したもの」
というところに達しました。
解放の意味ですが、
まず第一に、「日常からの解放」を指します。
日々のストレスや窮屈な生活、ルールからの脱却、解放の手段としてハロウィンの仮装が使われている。仮装し、集団となることで非日常を味わい、日常を忘れる。
そのことによって日常から解放された気分に浸り高揚するのではないでしょうか。
第二に、「自分からの解放」を指します。
仮装することで、自分はもはや自分でなくなり、引っ込み思案の自分が大胆な行動(見知らぬ人に話しかけ、一緒に写真をとるなど)をとることができる。嫌いだった自分を忘れ、自由になれるのです。
そして、この二つの「解放」が掛け合わさることで、社会のルールや倫理、モラルからも逸脱し、もはや誰も抑えようのない暴徒のような行動すら起こしてしまうのです。
私の考えとしては、ハロウィンなるものを仮装して町で楽しむことは多いに結構だと思います。
しかし、そこで得られる「解放」は、あくまで他人への迷惑や、モラル、社会のルールに反してはならないことを当然の前提とすべきです。これができないのであれば今後のハロウィンは法律で規制される方向で進むことでしょう。
人は誰でも日常や社会、ルールやモラル、そして自分から解放されたいと思いながら生きています。
そして、時には羽目を外すこと、気分転換を図ることも必要かもしれません。そのためのツールとしては、歌を歌う、山に登る、旅に出る、スポーツをする、読書をするなどいろいろな方法があります。
それにもかかわらず、降って湧いたようなイベントごとに集団で参加し、他人に迷惑をかけるなど、到底許されるものではなく、昨今の「行き過ぎた」ハロウィン行事には賛成できません。
讃岐うどんは自由だ!
讃岐うどんが大好きです。とりわけセルフタイプのお店が大好きです。
讃岐うどんは、かけ、ひやかけ、釜揚げ、湯だめ、釜玉、ぶっかけ、醤油など非常に多くのメニューがあります。ダシの温冷、うどんの温冷も自由自在です。
大きさも小、中、大、特大と、自分の好きなように選べます。
加えてトッピングの天ぷらやおにぎり、いなりも多種多様です
さらには薬味(ネギ、天かす、ショウガ、おろし)も自分で好きなだけ選んで盛ることができます。
店舗によってはダシも自分で好きなだけ注いだりします。
こうして、その日の気分に応じて人のことなど気にせず自分が好きなうどんを選び、好きなトッピングを選び、好きなだけ薬味をかけて好きなように食べることができるのです。
だから私はセルフタイプの讃岐うどんが好きなのです。
つい先日、薬味のネギを山盛りにして食べる食べ方は讃岐うどんの出汁の風味を損なうので望ましくないというSNSの投稿が話題となりました。
しかし、今日私の入ったセルフ店(@高松市内)で見かけた方は、山盛りも山盛り(例えるなら富士山くらいか)にネギを載せて(もはやうどんが見えない。)、美味しそうに召し上がっていました(食べる様子をずっとチラ見していましたが、途中、ネギだけを箸で山盛り掴んでダシに浸して食べておられました。余程のネギ好きでしょうね。)。
別の女性の器にも、先ほどの男性ほどではないにしてもやっぱり山盛り(例えるなら讃岐富士くらいか)のネギをかけておられました。
結局讃岐うどんのいいところのひとつは、自分の好きなように好きなうどんを好きな食べ方で好きなだけ食べられるというところにあるのだと思います。
私は何よりも、こうした「自分のことは自分で決める」というスタイルが大好きなのです。