常に変化を意識する。
日々の生活の中で、毎日の仕事の中で、自分のできることや身の回りのことを少しずつでも変化させ、より良い物になるよう意識しています。
最近では、長年お世話になっていたとある契約を解消しました。これは、今の事務所の体制をさらに発展させるためです。言い換えると、今の体制の下ではこの契約は必要ないと判断したからです。
もう一つ、無駄と感じていた月額サービスを解約しました。これも、無駄を削減し、他の方法で問題が解決できると判断したからです。
長年使っているとなんでも、「あるのが当然、無くなるのは不安」という気持ちになります。
しかし、今より前に進むためには「捨てる」決意も必要です。
そして、この度は、一つ新しい別の契約を交わし、事務所の整理を図りました。
二つの契約を解約し、一つの契約を締結したことで、全体としては月額コストの削減になりました。
その浮いた経費で新たなことにチャレンジします。
ダメ元
ダメで元々
やらずに後悔するならやって後悔
トライ&エラー
ネバーギブアップ
いつも頭の中にこんな言葉がグルグル回っています。
何でもやってみないと結果は分からない。
そう思うからです。
確かに、何かに挑戦するのは勇気がいるし、うまくいかなかった時には恰好悪かったりするのですが、そんな体裁や見栄ばかり大切にしていると、得られる成果も得られません。
今日は、「通らない」と思っていた保釈が通り、
「ダメ元でやっておいて本当に良かった!」
本当にそう感じました!!
昼寝
どうにも眠くてこの土曜日はいつもよりゆっくり起きました。
日中、いろいろ動いた後、それでもまた眠くなり、久しぶりに昼寝をしました。
倒れるように眠り込み、気が付いたら夕方でした。
少しスッキリしたのですが、夕食を済ませた後もいつもより早く眠りに就きました。
朝、昼、晩といつもより長く睡眠時間をとった週末です。おかげでまた今日から頑張れそうです!
重い紙
紙って重いです。
たくさんになると。
というのは、仕事上、あらゆる事件の記録は紙媒体でファイルに綴じていきます。事件が複雑になればなるほど、長期化すればするほど、当方、相手方、裁判所から提出される書類が膨大になります。
気が付けば一つの事件のファイルが5冊も6冊もなったりして、その事件の期日の時にはファイルがカバンに入らないのでスーツケースで運んだりします。
当然、事務所は大量の書類が保管されており、事件が終わったからといってすぐに破棄などしません。
あまりにも増えすぎたので保管場所を別途借りたのですが、移動する予定のファイルが重いこと重いこと。。。
大きなクリアボックスにファイルを20冊くらいずつ詰めたのですが、これを事務所の3階から、保管場所まで移動することを考えると、、、
弁護士の仕事は(ある意味)体力勝負?!かもしれません。
右か左か?
とある場所に向かうことになり、どの道順で行くのが一番早いか、カーナビに任せることとしました。
ただ、車のカーナビはちょっと古いタイプなので念のためにスマホのカーナビもセットして、どちらか「信用できそうな方」に合わせることとしたのです。
とはいえ、内心ではカーナビもスマホも、だいたい同じ経路を指示すると思っていたのです。
ところが、道を進む都度、交差点に差し掛かる都度、
カーナビからは「300メートル先を右です」
スマホからは「300メートル先を左です」
と異なるアナウンスが続きました。
どちらに従うべきか迷いつつも、何となく、スマホの指示に従い続けると、カーナビはそれでも自分の進路をアナウンスし続けてくれます。
徐々に目的地に近づきつつも、結局ほぼ最後の最後まで、カーナビとスマホは真逆のアナウンスをし続けました。
余りにもカーナビの指示を無視し続けたので、きっとカーナビはもう私のことが嫌になったことでしょう。
でも、後で確認してみると、カーナビの指示した道順は、ちょっと遠回りのようでした。なのでスマホを信用したのは正しかったようです。
それにしても、カーナビやスマホもただ漫然と信用しきってはいけないかもしれませんね。
講師と聴衆
時折、人前でお話しをさせてもらう機会があります。
多くは学習会や講演会です。
弁護士会の主催の会だったり、民間団体や公的機関からの依頼だったりします。
今日はこれから弁護士会の学習会の講師を担当しています。
聴衆はおそらく20~30人でしょうか。
今度の秋にはとある学校で講師の予定なのですが、その概要が今日届きました。
聴衆の数(予定)として約1000名とありました!!
いままで多くて300名程度だったと思います。それを大きく上回る数に、ちょっと驚きました。
人数が多いからといって緊張することもありませんが、「多くの聴衆に、どれくらい分かりやすく話をするか」はかなり工夫が要ります。
少ない場合には、その「目の前の人」だけを狙った話をすればよいのですが、人数が多くなると聴衆の反応を捉えるのが難しくなるからです。
なので、秋の講師までにいろいろ準備が必要になりそうです。
メダルの数
オリンピックが終わり、各国ごとのメダル獲得数やその分析などが新聞に掲載されていました。
今回、日本は大活躍で6位でしたね。
韓国は前より減って8位で、前回大会より減らしていますね。
アメリカはやはり強くて1位です。
中国も強いですね。
「人口が多い国はやはり強いのかな~?」
と思っていると日本より人口の少ない英国が2位です(日本の約半数の人口)。
たしかに、人口の多いインドなんかは実は銀×1、銅×1のみです。
へー。
国によってどれだけオリンピックに力を入れているかの違いでしょうか。
数字を見ていていろんな国への興味が沸きました。
「終わるまでする」ではなく「何時までに終わらせる」で行動する
仕事の〆切はいつも「その仕事が終わるまで」ではなく、必ず「何時までに終わらせる」で考えます。
そうしないと、自分の仕事の能率を上げる工夫をしなくなりますし、次々くる仕事を処理しきれないからです。
そう考え、いつも行動し、今も移動時間を使って9月の相談予定表をすべて更新しました。
加え、残り3分という中でこのブログを(簡単ですが)書いて、今日の仕事を「終わらせます」。
さて、そうすることで明日には明日朝いちばんから新しい仕事に取り掛かります。そうです。必ずリミットを設けて。
成長とは何か。
成長とは何か。ふと、夕食を食べながら考えました、
1 人の場合
人にとっての成長は、「できないことができるようになること」だと思います。
赤ちゃんは寝る、飲む、泣く、排せつするくらいしか最初はできませんが、徐々にハイハイする、食べる、笑うということができるようになり、大きくなっていきます。
大人の場合でも、昨日できなかった仕事が今日はできるようになった、という意味で成長といえます。
このような意味で、人の場合の「成長」は分かりやすいです。
2 会社の場合
では、会社の場合はどうでしょうか。人の場合と同じように、「できないことができるようになったら」成長というのでしょうか。
この点をしばらく考えてみたのですが、どうもしっくりきません。
例えば飲食店を経営する会社の場合、提供するメニューがあり、店舗があり、従業員がいると。そこでは、日々、できることが増えるかどうか、何とも評価し難い側面があります。
「新しいメニューを提供できるようになったら」成長といえるか、といえばそう言えそうな気もしますし、ちょっと違う気もします。
では、「以前より売上が増えたら」成長なのでしょうか?
経済活動のために存在する会社としては、至上命題ではありますが、売上だけを「成長」の指標としてよいのか、何となく私には迷いがあります。
まだはっきりした答えに至ってはいませんが、現時点では、「社会に貢献できることが増えたら」成長と言ってもよいのではないか?と考えました。
要するに、営利を目的とする会社といえども、社会の一員であることに変わりはないから、決して利潤のみを求めるのではなく、社会貢献を実現できて、その量と質を高めて初めて「成長」と評価する、ということです。
3 国の場合
では、国の場合はどうでしょうか。
人口の増加を持って「成長」というのは危険でしょうね。そんなことを言い出したら人口減少社会の日本は滅びゆく国かのうように感じてしまいます。
国のGDPで評価するのも違うと思います。
やはり、国の場合には、「どれだけの国民が幸福に過ごせるかどうか」で成長とみるべきと思います。
以前より、今の方が、「自分は幸福だ」と思っている国民総数が多い、そのことをもって国の成長、と評価するべきように思います。
当然、数値化などできないことですが、多くの国民の幸福を目指して国が動くべきことに間違いはないと思います。
4 まとめ
このように、ひとことで「成長」といっても、対象によってさまざまな「成長」があるように思います。
当然、私個人の今の考えでしかないので、なんとなくのつぶやき程度に受け止めてもらったらと思います。
みなさんは、「成長」をどう考えるのでしょうか。
再会
両親の事情により別居や離婚となり、その一方が子を監護、養育するケースが多々あります。
子を監護、養育していない立場の親としては、「一刻も早く会いたい。」「できるだけたくさん会えるようにしたい。」と強く願います。
しかし、不幸にも当事者間での面会の話し合いができない場合には、長期間に渡り、面会自体が実現しない=子と会えないケースがあります。
数か月から1年も我が子と会えないということもあるのです。
このような状況は、子にとってもあまりに不幸で、特に幼い子であればあるほど、親との愛着形成の機会を奪われることとなり、その子の人格形成にも悪影響です。
弁護士としては、子に早く会いたいと願う親の気持ちを汲んで、可能な限りの手段を尽くします。
それがうまくいき、久しぶりの再会となった時には、久しぶりの我が子との再会に涙する親の様子を見て、私自身も熱く込み上がるものを感じます。
みなさんも、もしお子様がいらっしゃる場合には想像してみてください。理不尽にも我が子とこの先1年間、まったく会えないという状況を。