良い眠り。
良い眠りのために意識、工夫はしていますか?
毎日のこと、健康のためなので良い眠りはとても大切です。
良い眠りは、家庭生活や仕事、対人関係にも影響すると思います。
私の場合、運動して疲れた時に、ほどほどの飲酒をして眠ると熟睡度が高い傾向にあります。
仕事で頭を使い過ぎて、そのあと飲酒して眠ると余り良い眠りではありません。
睡眠は体と頭を休めるものなので、仕事で頭を使っただけでは良い睡眠には至りにくいようです。
そして、運動してから眠りにつくと、頭もしっかり休まります。
なので日ごろから運動は大切で、週に何度かは体を動かすようにしています。
それがために日々の頭脳ワークも冴えてくると思うのです。
主観と客観
人はたいてい、自分の認識する「主観的事実」が「客観的にも正しい事実」と考えています。
そのような「主観的事実」について、他者から「それは客観的事実ではない」と批判されても容易に自分の考えを改めることはできません。
なぜなら、人間の脳が「主観的事実=客観的事実に違いない」と考えるようにできているからです。
このような脳の仕組みのために、交通事故の事故態様においても、離婚事件の夫婦ケンカの原因にしても双方の言い分は真っ向から対立します。
結果、お互いがお互いを非難し、責め立てることとなるのです。
こうなるとお互いの当事者同士での解決は不可能となるため、弁護士や裁判所と言った専門家や第三者機関が必要になるのです。
そして、裁判所では証拠に基づき確定できる事実をもって「客観的事実」とみなしています。これはあくまで神様の目で見た「真実」そのものではありません。あくまで、実在する「証拠」に基づき、裁判所が認定した「客観的事実」でしかありません。
その意味では裁判所の認定する「客観的事実」ですら、過去に起きた本当の「真実」そのものでないことが多々あります。
それでも、専門家の関与の下、中立公正な裁判所が証拠に基づき認定した事実である以上、その事実をもって争いを収束させよう、というのが我々近現代の人間の考えた紛争解決のための英知なのです。
なので、①人間の主観的事実と客観的事実には簡単に誤りが入り込むことを認識し、②お互いの認識が食い違う場合には、専門家、裁判所の関与の下で解決を図ることが合理的である、と人々が考える限りは、司法制度というものは健全な社会の構築になくてはならないものといえます。
もう、食べられません。
今年3月8日に、「もう、隠れられない。」というブログを書きました。
隠れた名店が、いつの間にか人気店になっていたお話しでした。
結局、その時も満席過ぎて食べることはできなかったのですが、つい先週、たまたま開店時間(11時30分)ジャストにその近くを通りかかったため、久しぶりに行ってみたのです。
当然、「開店時間だからすぐ入れるに違いない」との読みです。
ところが!
なんと!
開店直後から(ほぼ)満席ではないですか。
もはや超人気店です。満席の状態で待って食べるほどの時間はなかったのでこの時もまた泣く泣くあきらめました。
その翌週の今日、再度たまたまお昼ごろにそのお店の近くに来る用がありました。
さすがにこう何度も何度も満席状態が続くので今日は初めからこのお店に行くこと自体を諦めていました。
すると、やっぱり満席+行列でした。
案件が終わって午後2時ころになってもそのまま満席+行列の状態を見て、私は確信したのです。
「きっと、自分はもうこのお店で美味しい美味しい味噌ラーメンをもう食べることはできないだろう。。。」
そうなんです。
岡山では珍しい味噌ラーメンの超人気店なのでした。でも今回も店名は書きません。書いたらきっともっと、行列が伸びてしまうので!
「うどん専用」検索ツール
うどん県の香川では、ネット検索も「うどん専用」になるようです。
というのも、今日、案件で高松の裁判所に出向いた際、待合でネット検索しようと思ったら、次のような検索候補表示がされることが分かったのです。
。。。
①「う」と入力すると→「うどん」というワードが検索の第一候補に表示される。
②「うま」と入力すると→「うまいうどん屋」と表示。
「う」と打てばまずは「うどん」の県民よ。「うま」と打てば「うまいうどん」が頭に浮かぶ。
こうして、たまたま①、②に気づき、調子にのって次々、ワードを変えて試してみました。
③「おい」→「おいしいうどん屋さん」
④「まず」→「まずいうどん屋」
うーん。おいしいうどんを食べたい。当然、まずいうどんは食べたくない。そんな県民性が見えました。おいしいうどん屋には「さん」をつけ、まずいとつけない微妙な心理も、、、
⑤「ちか」→「近くのうどん屋」
ううむ。おいしい、まずいに続いて今度は、とにかく近くのうどん屋を求める県民性が伝わります!「イイネ!」
さらにさらにワードを入力すると、、、
⑥「やす」→「やすなみうどん」
⑦「たか」→「たかやうどん」
との候補表示が!
私の予想では「やすいうどん屋」とか「たかいうどん屋」が表示されると思ったのに、異なりました。
値段のことよりも「どのうどん屋か?」を重視するのが県民性でしょうか?それとも、「讃岐うどんは安くて当たり前!」なので値段を検索する県民は不在なのでしょうか??
飽き足らず続けました。。。
⑧「たに」→「谷川米穀店」
⑨「なか」→「なかむらうどん」
これは予想通りの超有名店です。いずれもすぐに候補表示されました。
こんな感じで、どうやら香川県内でグーグル検索すると、うどんのことが優先的に検索できることが分かりました。おそるべし香川。おそるべしグーグル。
*試しに倉敷の事務所に戻って同様のキーワードで検索したらまったく違うワードが候補表示されました。おそるべしGPS!ですね。。。
解放されたい
つい先日のハロウィン大騒動を見て、ここ数日ずっと考えていました。
「どうして人はハロウィンで大胆な仮装をし、大胆な行動を起こすのか?」
いろいろ考えましたが、今の私の結論は
「解放されたいという心理が、仮装を通じて実現したもの」
というところに達しました。
解放の意味ですが、
まず第一に、「日常からの解放」を指します。
日々のストレスや窮屈な生活、ルールからの脱却、解放の手段としてハロウィンの仮装が使われている。仮装し、集団となることで非日常を味わい、日常を忘れる。
そのことによって日常から解放された気分に浸り高揚するのではないでしょうか。
第二に、「自分からの解放」を指します。
仮装することで、自分はもはや自分でなくなり、引っ込み思案の自分が大胆な行動(見知らぬ人に話しかけ、一緒に写真をとるなど)をとることができる。嫌いだった自分を忘れ、自由になれるのです。
そして、この二つの「解放」が掛け合わさることで、社会のルールや倫理、モラルからも逸脱し、もはや誰も抑えようのない暴徒のような行動すら起こしてしまうのです。
私の考えとしては、ハロウィンなるものを仮装して町で楽しむことは多いに結構だと思います。
しかし、そこで得られる「解放」は、あくまで他人への迷惑や、モラル、社会のルールに反してはならないことを当然の前提とすべきです。これができないのであれば今後のハロウィンは法律で規制される方向で進むことでしょう。
人は誰でも日常や社会、ルールやモラル、そして自分から解放されたいと思いながら生きています。
そして、時には羽目を外すこと、気分転換を図ることも必要かもしれません。そのためのツールとしては、歌を歌う、山に登る、旅に出る、スポーツをする、読書をするなどいろいろな方法があります。
それにもかかわらず、降って湧いたようなイベントごとに集団で参加し、他人に迷惑をかけるなど、到底許されるものではなく、昨今の「行き過ぎた」ハロウィン行事には賛成できません。
讃岐うどんは自由だ!
讃岐うどんが大好きです。とりわけセルフタイプのお店が大好きです。
讃岐うどんは、かけ、ひやかけ、釜揚げ、湯だめ、釜玉、ぶっかけ、醤油など非常に多くのメニューがあります。ダシの温冷、うどんの温冷も自由自在です。
大きさも小、中、大、特大と、自分の好きなように選べます。
加えてトッピングの天ぷらやおにぎり、いなりも多種多様です
さらには薬味(ネギ、天かす、ショウガ、おろし)も自分で好きなだけ選んで盛ることができます。
店舗によってはダシも自分で好きなだけ注いだりします。
こうして、その日の気分に応じて人のことなど気にせず自分が好きなうどんを選び、好きなトッピングを選び、好きなだけ薬味をかけて好きなように食べることができるのです。
だから私はセルフタイプの讃岐うどんが好きなのです。
つい先日、薬味のネギを山盛りにして食べる食べ方は讃岐うどんの出汁の風味を損なうので望ましくないというSNSの投稿が話題となりました。
しかし、今日私の入ったセルフ店(@高松市内)で見かけた方は、山盛りも山盛り(例えるなら富士山くらいか)にネギを載せて(もはやうどんが見えない。)、美味しそうに召し上がっていました(食べる様子をずっとチラ見していましたが、途中、ネギだけを箸で山盛り掴んでダシに浸して食べておられました。余程のネギ好きでしょうね。)。
別の女性の器にも、先ほどの男性ほどではないにしてもやっぱり山盛り(例えるなら讃岐富士くらいか)のネギをかけておられました。
結局讃岐うどんのいいところのひとつは、自分の好きなように好きなうどんを好きな食べ方で好きなだけ食べられるというところにあるのだと思います。
私は何よりも、こうした「自分のことは自分で決める」というスタイルが大好きなのです。
不完全な美
芸術にはまったく疎いのですが、綺麗なものに対する興味はあります。
つい先日、偶然撮った花の写真が綺麗だったので、パソコンのデスクトップの背景にしてみました。
この間、新しいパソコンにしてからずっと、もともとインストールされていた画像を張り付けていたのですが、やっと変更したのです。
というのも、パソコンのデスクトップって意外と他人の目に入るので、あまり個人的過ぎる画像を待ち受けに出来ないので「無難な」写真ってなかなか無いと言えば無いのです。
ところでタイトルにした「不完全な美」の意味ですが、待ち受けにした花の写真には、いくつか花が写っていて、一つは「ほぼ満開」、いくつかは「咲き始めもしくは咲き終わり」、残るは「蕾」という状態で、その上、満開の花も決して完璧は形ではなく、少し花びらの一部が萎れているようなものなのです。
この微妙さが気に入って、この度は待ち受けにしてみた次第です。花の美しさも決してすべてが綺麗に咲き揃っているだけではないのだと感じたのです。
このような考えは、花に限らず、人にも当てはまると思います。
人生いろいろ、人も色々。それぞれの人生のそれぞれのタイミングに、その時々の最高の美しさがあるのだと思います。
ミックスフライ
久しぶりに揚げ物食べました。
しかも「ミックスフライ」。
理由、、、
「すごくお腹が空いていたから」
です。。。
しかも、「カキフライ・エビフライ・アジフライ」のミックスだったんです。
そんなステキなミックスフライを注文しない理由がありません。
カキフライを頬張りながら秋を感じ、
アジフライを頬張りながら学生時代を思い出し(大学時代に、いつも通っていた定食屋のアジフライが大好きでした)、
エビフライを頬張りながら、「どうしてエビフライはフライの王様なのか?」を考えました。
ただ。
揚げたてのフライのお陰で、口の中火傷しました。。。
あー。
ミックスフライの罪深さ。
はいとうん
会話の相槌で、「はい」と「うん」があります。
「はい」は、丁寧な相槌で、「うん」は親密な間などで使われる相槌です。
このような「はい」と「うん」ですが、使い方によって結構様変わりします。
例えば
「はいはい」と答えると、軽い感じできちんと相手の話を聞いていないような印象を与えます。
「うんうん」と答えると、親しみを持ちながらも相手の話に共感している様子が伝わります。
「はい?」と語尾を上げると、一気に丁寧さよりも相手の話に疑問や不満を感じている様子が出ます。
「うん?」と語尾を上げると、やはり疑問の様子が伝わるでしょう。「はい?」の場合とは異なり、不満の様子はあまり伝わらないと思います。
「はいはいはい」と素早く三つ続ける返答は要注意です。相手の話に丁寧に傾聴するフリをしつつ、早く話の先をせかしたり、会話の終了を求めている様子が伝わります。
「うんうんうん」と続ける返答の場合は、「はいはいはい」と異なり、深い傾聴の様子が伝わるかもしれません。
「はーい」と伸ばした返事は間の抜けた感じで相手をバカにした印象です。
「うーん」という返事はあまり聞きませんが、「う~ん」となると、自分の悩みや迷いが伝わります。
ちょっとした違いのようですが、シチュエーションに応じた「はいとうん」の使い分けも大切に感じました。
早く仕事を進める工夫
毎日毎日、たくさんの仕事があります。
どんな会社でもきっと同じでしょう。
仕事に限らず、家事や育児もそうでしょう。
そして、誰でもきっと「早く仕事(家事)を片付けたい!」
と願い、かつそうしようとしていることでしょう。
私も当然同じです。
実際、仕事を早く進めるために、次のような工夫や心がけをしています。
①仕事を仕分ける→その日のタスクを明確にし(メモに書きだす)、優先順位をつけ、「自分にしかできないもの」と、「それ以外」に分け、「それ以外」は完全に他人に任せます。
②使える道具はすぐ導入する→いまどきPCは当然でしょう。その際、一番ハイスペックなもの導入します。また、その他最新IT機器なども積極導入します。
③即断即決を心掛ける→仕事を進める際の「迷い」は実は、時間浪費の元です。迷った際には初心にかえり、原理原則から考えて「即断即決」を目指します。
こうした工夫や心がけの結果、人の何倍もの仕事をこなすことが可能になります。当然、これは自分一人の成果ではありません。自分を助けてくれる、手伝ってくれる人やモノのお陰です。
なので、自分の周りにそのような環境を整えることが大切ですし、その環境に感謝し、大切にしなくてはなりません。
実はこれこそが仕事を早く進めるのに一番大切なことかもしれません。