何が侮辱で何が問題か~東京五輪・演出案の問題点~
東京五輪開閉会式の統括責任者佐々木さんが発案した演出案について、縷々問題点が指摘されています。
他方で、かかる演出案は別に問題がないとの声もあるようです。
この点、私なりの考えをまとめ、何が侮辱で何が差別になるのかを指摘したいと思いkます。
➀まず、今回の演出案は、女性タレントを豚に見立てたものとのことですが、豚に例えることがどうして侮辱なのか?うさぎなら良いのか?との声がありました。
この点、豚は社会通念に照らし、「怠惰な様子」「肥満の象徴」として受け止められていることは明らかです。それゆえ、タレントの事前の了解なく一方的に豚に見立てることは当該タレントを馬鹿にしたものと言わざるを得ません。
その意味で侮辱として十分成り立ちます。
うさぎについては、かかる意味での否定的受け止め方が一般に成り立ってはいませんので、仮にうさぎに見立てたのであれば問題になり得ないことも明らかです。
②次に、当該タレントが以前、自ら豚に扮するようなコスチュームを着てテレビに出ていたのであるから構わないのではないか?との声がありました。
この点、当該タレントが自らの意思で扮することは当然問題となりません。他方で、タレントの了解なく、その場にもいない状況で勝手にこのような見立てをすることは問題です。過去に一度、豚に扮したことがあるからといって、未来永劫、そのことを了解していることにはならないからです。
③他には、太っていることを前提にテレビに出るなどして活躍しているタレントがいるがその人たちはどうなるのか?という声もありました。
この点も②と同様、本人がそれを良しとしているのであれば当然、問題となりません。指摘の声自体、前提を誤解していると思います。
④まとめ
結局、今回の企画案は、「タレント自身がいない場で、その説明も了承もなく豚に見立てた企画案が発案されたものであり、タレントに対する配慮はまったくなく、むしろ差別、侮辱の意図で構成された。」と見る他ありません。
そうすると、それが本来、内部的なやりとりに過ぎず、告発されたから明るみに出たという経緯は別としても、そのような侮辱的企画を発案した責任者はその責任を問われてもやむを得ないことだと思います。
また、今回の問題はいじめの事案で、「被害者が嫌だと言わなかった」とか、「被害者が前にもそれを了承していた」とか、「被害者がいない場で被害者をコケにする」とかといういじめの実態に非常に似ていると思います。
侮辱、差別については、された側の立場に立って判断すべきは当然ですが、そのような当然のことがオリンピックの演出責任者には備わっていなかったものと思います。
同性婚に対する司法の考え方
ここ最近、同性婚に関する重要な判例が続きましたので、以下、簡単ではありますが、ご紹介します。
【同性婚を認めない法律を違憲とした札幌地裁判決】
2021年3月17日付け札幌地裁の判決は、同性婚を認めない現在の法律は憲法に違反するとしました。
裁判では、法律の規定が憲法24条、13条、14条に違反しないかなどが争われたところ、裁判所は14条違反を認め、違憲の判断をしたものです。
この点、憲法24条は婚姻について、「両性の合意のみに基づいて成立し」と規定していることもあり、異性婚を念頭に置いておらず、異性婚を認めない法律が憲法24条に違反するとはなりませんでした。
また、憲法13条は個人の尊厳や幸福追求権を保障しますが、同条に基づき同性間の婚姻などに関する特定の制度を求める権利が保障されていると解することもできないとしました。
他方で、憲法14条では法の下の平等を定めているところ、法律において異性婚しか認めていないことは立法府の裁量権の範囲を超えたものとして合理的根拠を欠く差別的取扱いに当たると判断したのです。
判決では、異性婚の場合に多々認められている権利や地位を同性婚を希望する者には与えないことの不利益を詳細に論じ、そのような区別は許されないとしたのです。
【同性事実婚の浮気に慰謝料支払いを認めた最高裁判決】
2021年3月19日には、最高裁にて、同性事実婚にあった女性当事者が、パートナーだった女性に対して、浮気をしたことで同性事実婚関係が破綻したことの責任を求めていた裁判で、女性当事者の請求を認めた高裁の判決を指示し、元パートナーに対する請求が確定しました。
いわゆる不貞の慰謝料は、典型的には法律上の婚姻関係にある夫婦の一方が浮気をした場合に問題となります。
不貞行為がなぜ権利侵害になるかについては、婚姻共同生活の維持という権利または法的保護に値する利益を侵害されたからとされています。
そして、法律上の婚姻関係になくとも、これに準ずる関係として、内縁関係にある男女の一方が浮気をした場合でも、かかる権利または利益を侵害されたものとして、損害賠償請求が認められます。
そのような前提状況を踏まえ、同性同士の内縁関係の場合でも、浮気に対する損害賠償を認めたのが上記裁判例ということです。
なお、内縁関係と認められるか否かは、➀婚姻の意思があること、②夫婦同然の共同生活の実態があることと言われます。
その意味では、上記裁判例では、同性同士であっても➀婚姻の意思があることを認め(婚姻の意思があれば足りるので、実際に婚姻届けが受理され得るかどうかは関係ない)、②夫婦同然の共同生活の実態を認めたものといえます。
②の点については、札幌地裁の判決においてもかなり詳しく論じられていましたが、同性愛についての時代の中での国民意識の変化や科学的知見の確立も踏まえ、同性であったとしても夫婦としての実態を観念し得るとしたものと思います。
【まとめ】
このように、司法の判断の中では、同性愛についての理解は前進し、世界基準に近づきつつあるといえます。ところが、国会や地方議会においては、異性婚の中で古くから問題視されている夫婦同姓制度に関し、未だにこれを変えようとしない動きがかなりあります。
私は、この度の上記二つの裁判例を受け、今まで以上に同性愛や婚姻という制度の在り方を多くの人が見つめ直すきっかけになればと願ってやみません。
共有することの喜び
人は自分の経験や考えなどを他人と共有することに強い喜びを覚える生き物です。
自分の特別な経験は知人、友人、家族にすぐに伝えたくなります。共有することで自分の経験の価値は増し、その人たちからの大きなリアクション(すなわち共感)があればそれはさらに増大します。
親しい人との食事は素晴らしい経験の共有そのものです。美味しい食事、美味しい飲み物、楽しい会話があればその食事の機会は何事にも代えがたい価値を持ちます。
現代においてはPCやスマホで容易に他人との共有が可能です。人気のあるSNSアプリではすべからく、「シェア」や「いいね」などの共有、共感の機能があります。
小さい子どもたちは、いつも父母や保護者などに対して「見てみて!」と自分のしたことや置かれた状況に注目を求めます。これもやはり、経験の共有により、自分の喜びを倍加させたい、父母たちにもこれを共感してもらいたいとの表れです。
このように、人の営みにおいて、共有することはとても大きな意味を持ちます。共有なき人生は虚しいと言いきったら言い過ぎかもしれませんが、それくらい重要な意味を持つと思います。
最近は、自粛ばかりかもしれませんが、やはり人が人らしく生きていくためには共有することが不可欠です。他人と共有することで自分が自分らしく、過ごせる。そう考える今日この頃です。
繋がり、繋がる
ここ最近、本当に新しい出会いの機会や交流の場が持てないため、日々の活動や生活に変化が乏しく、固定化した状態が続いてしまっています。
個人的にはこのような状況、全く好まないのでとてもフラストレーションが溜まっている状態です。多くの方もきっと同じだと思います。
そうした中、昨日はとあるきっかけで新たに知り合った方といろいろなお話しをすることができました。興味深く聞いていると、共通の知人がいることも分かり、その方の話題にもなりました。
人の営みはすべからく他人との繋がりを作ることに尽きると述べた人がいましたが、まさにそのとおりだと感じます。
人が人である以上、人との関係や繋がり無くして社会は成り立ちません。
「今は我慢」
それも分かりますが、我慢だけでは人間らしく生きていけません。
我慢と同時に持てる繋がりも大切にしたいとつくづく感じました。
雑談は無駄ではない~雑談の効用~
コロナのために在宅勤務が増え、外出や集まりも控え続けた状態が全国的、全世界的に広がっています。
ある意味で「無駄」の無くなった生活状況とも言えるのですが、「無駄」の代表格のように思われがちな「雑談」もまたコロナのために失われています。
在宅勤務になればちょっとした雑談もありませんし、外出も集まりもなくなればやはり雑談は生じません。
しかし、ここ最近、このような雑談が実は重要だったと見直す風潮も生じて来ています。
というのも、一日中在宅勤務をしていると、他人との接点が希薄になり、接点をもったとしても「仕事のこと」だけになりがちだったりして、結果、うつ病を発症したり、創作的な作業が進まなかったりするのです。
当然、仕事に限りません。家庭内では雑談があり得ても、家庭外の人間関係が希薄になると、個人が孤立し、社会的生き物である人間が人間らしく生きられなくなるのです。
そのため、企業では、あえての雑談の時間や場をオンラインなどで設けるなどの工夫を凝らしたりしています。
私も雑談の効用は以前からとても大切だと感じていた一人なので、事務所内であえて雑談をするきっかけを作るよう意識しています。
また最近では、スマホアプリのCLUB HOUSEの人気がうなぎ登りです。このアプリは個人同士の雑談などに用いるのに本当に便利で、コロナの中で他人との接点や雑談の機会に飢えている世界中の人々にウケるのはある意味当たり前といえるものです。
結局、人が人である以上、他人との接点を欠いた生活は息苦しさしか残りません。
「効率」ばかりを追い求める社会もまた持続可能性に富んだものとはなりません。
一見すると無駄の代表のような雑談から生まれたヒット商品も数知れません。
その意味で私たち人間は大いなる無駄の中に生きていると言っても過言ではないと思います。
なので、今日もみなさん、大いに雑談をしましょう。それが健康に生きる秘訣だと思います。
嫌いな言葉
「泣き寝入り」という言葉が嫌いです。
広辞苑には「不本意ながらそのままにしてあきらめること」とありますが、何か困難やトラブルにあったとしても、決して泣き寝入りなどせず、戦えばよい。諦める必要なんてない。
いつもそう思っています。
そうは言っても、いろいろな事情で諦める他ないと言われる方もいます。
でも、私はそう思いません。思いたくもありません。
自分が被害に遭い、尊厳を冒され、権利を侵害されたのであれば、迷うことなく被害や尊厳の回復のため、権利の救済のために全力を尽くします。それが自分の信念です。
自分の尊厳の大切さは自分自身が一番分かっていることです。自分の権利は自分自身にしか帰属しないこと、黙っていても人が与えてくれるものでないことも明らかなことです。
なので、私は自分の尊厳や権利を大切にしたいと思っていますし、個人の権利救済、尊厳回復のためにご相談に来られた方のためにも全力を尽くしたいと考えています。
「泣き寝入り」という言葉が広辞苑から消える日が来ると、そう信じています。
美味しい牡蠣の食べ方
牡蠣の生産者の方からたくさん、生牡蠣を頂きました。
嬉しく思いながら自宅に帰り、様々な食べ方で頂きました。
~~~
➀酢牡蠣→スライスした玉ねぎとポン酢で。
②牡蠣のソテー→溶き卵に付けてから焼いて。
③牡蠣の汁→あっさりスープと野菜で一緒に。
~~~
どれもこれも美味しく、たくさん頂きました。
まだ残りがあるので今日はそれこそ牡蠣のオイスターソース炒めにしてみようかと思います。オイスターソースは牡蠣が主原料ですから、美味しくないはずがないですね。。。
昼食を済ませたばかりですが、もう夕食のことで頭が一杯です。
遺産分割の「期限」について
親族の死亡により生じる「相続」の問題は、遺言があれば遺言で処理し、これがなければ相続人間の遺産分割により処理をすることとなります。
相続人間で円滑に協議が進めば良いのですが、そうでない場合には協議が進まず、いつまでも相続の手続きが終わらないことがあります。
この点、相続に関するルールを定める民法には遺産分割自体の期限の定めが何もありません。その結果、未分割の遺産が何年も何十年も放置されてしまう事態が結構多くあります。
しかし、このような状態はとりわけ不動産を中心に大きな問題となります。
というのも、亡くなった方の名義のままの不動産が残されると、管理が届かず、荒れ放題となり近隣環境に悪影響が大きいからです。
そこで現在、遺産分割の期限を10年に限定する法改正が検討されています。この改正が通ると