木村花さんの件での賠償命令について
2021年5月19日付けで東京地裁は木村花さんに対する誹謗中傷を行った被告に対し、約129万円の判決を言い渡したと報じられています。これが木村さんの件での初の損害賠償を認める民事での判決とのことです。
ネット上での誹謗中傷に対しては、権利救済のために非常に困難なハードルが多いことで法改正やネット教育の充実などが議論されてきました。
今回も、昨年5月23日に木村さんが亡くなった後、
➀6月にツイッター社に対するIPアドレスの開示を求める仮処分を申し立て、
②その決定を踏まえて今度はプロバイダーに対する発信者情報の開示を求め、
③プロバイダーから11月に開示を受けたものの、契約者と発信者が別人だったとのことからその後の調査を続け、
④やっと特定できた発信者に対して今年1月に本件訴訟を提起でき、
⑤昨日判決に至った
とのことです。
ほぼ1年を要して民事上の判決まで至った訳ですが、報道によればどうやら当該発信者は上記裁判に欠席したままだったとのことなので、判決が仮に確定したとしても、賠償額を任意で受けられるか定かでありません。なので、今後は判決が確定すれば、被告に対する差し押さえを検討しないとなりません。
本当の意味での解決はまだもう少し先になるのでしょう。
加えて、判決での認容額のうち慰謝料部分は50万円であり、これがこの度の賠償額として十分なのかも議論が必要です。現在の裁判例の慰謝料相場はおよそ低額に過ぎるとの声も多分にあり、本当の意味でネット上の被害が無くなるためにはネット教育、法改正、裁判所における慰謝料相場の改変など多面的な改善が必要だと思います。
示談交渉による解決のメリットとデメリット
弁護士として事件の依頼を受ける際、訴訟や調停などといったいわゆる「法的手続き」ではない「示談交渉」による受任形態があります。
示談交渉という言葉自体は、今や多くの人が知っている言葉でもあり、相談者の方も「示談でお願いします」と、受任形態を希望されることがあります。
示談交渉は訴訟と異なり、穏便に解決する、スピーディーに解決するといったイメージがあるようです。他方で訴訟については、大事、大変、長くかかるといったイメージが強いようです。
このようなイメージの違いもあり、示談での解決を希望する方が多いのだと思います。
たしかに示談交渉についての上記イメージはいくらかはその通りですが、他方で示談交渉においては訴訟の場合と異なる大きなデメリットがあります。
それは、示談交渉は当事者間でのやりとりないし交渉の結果、条件がまとまれば交渉が成立するが、まとまらなければ何らの結論も得られないという点です。そのため、示談交渉の場合、たとえいくら相手方の言い分や条件が不当であり、そのことを一生懸命こちらが指摘しても、相手方が折れてこない限りはまとまらないのです。
他方で訴訟の場合には間に裁判所が入ることから、当事者間の主張立証を踏まえ、最終的には裁判所が言い分に対する結論を出してくれます。相手方による主張が不当なものであればハッキリとこれを判断してくれます。
そのため、示談交渉での解決を念頭に置く場合、相手方がこちらの要求をあれこれ飲んでくれればラッキーですが、そうでない場合にはこちらもそれなりの譲歩もしくは相当の妥協をしない限りまとまりません。
なので、弁護士としてはいくら示談交渉が穏便でスピーディーだとしても、相手方との折り合いがつきそうにないケースでは示談交渉での解決をお勧めしません。
それでも示談交渉をお受けすると、あれこれ交渉を試みたものの結局は折り合いがつかず、やむなく訴訟に移行することとなります。これでは結果的に時間も費用も余計にかかるばかりです。
なので、示談交渉にはメリットもありますが、そのデメリットも小さくないことをしっかりと認識した上で解決のための方法選択をして欲しいと思います。
不貞慰謝料に対する加害者側の責任の軽重について
(慰謝料の請求方法について)
不貞慰謝料は、不貞行為を行った当事者2名に対して請求が可能です。
被害者をA、その配偶者たる加害者をB、不貞相手をCとした場合、BとCとの責任は共同不法行為による不真正連帯債務と扱われます。このことの意味は、Aとしては被った精神的苦痛についてBだけに全額を請求しても良いし、BとCに連帯して全額を請求しても良いし、Cだけに全額を請求しても良いということです。
その結果、次のような請求方法が考えられます。
【ケース➀】
AがBとCに同時に請求する(たとえばAがB,Cに合わせて200万円を請求する。)。
→このような請求方法になるのは、離婚した場合や離婚が目前に迫っている場合が多いです。
【ケース②】
AがCにだけ請求する(たとえばAがCに200万円を請求するがBには請求しない。)。
→ケース➀と異なり、離婚をしない場合にはこのような請求になることが多いです。
【ケース③】
AがBにだけ請求する(たとえばAがBに200万円を請求するがCには請求しない。)。
→理屈上はあり得なくないですが、あまり多くない類型です。
(BとCの責任の軽重について)
以上のように複数の請求方法がありますが、BとCとが連帯責任として扱われる関係で、果たしてその責任の軽重について違いがないのかが問題となることがあります。
具体的には、上記ケース➀の場合に、BとCとで認容される金額に違いはあるのか、ケース②の場合に、Cに請求できる金額はケース③でBに請求する場合と比較して減額されるのか、という形で問題となります。
また、ケース➀で、CがAに支払った慰謝料について、Bにも負担を求めた場合に、支払った慰謝料の何割を求めることができるのかという場合(ケース④といいます)にも問題となります。
【考え方➀】
上記の問題について、BとCとは共同不法行為による不真正連帯債務を負う立場にあるから、AがBないしCに請求できる金額に違いはないとする立場です。
この考え方に従うと、上記ケース➀ないし③のいずれの場合でもBとCはAに同じ金額を支払えとの結果となります(たとえばケース②の場合、CはAに200万円を支払えとなる。)。
ただし、ケース④において、BとCとがお互いの責任割合を踏まえた求償の場面では、BとCのいずれの責任が大きいかを検討、判断し、負担割合を決めることとなります(その結果、BとCの責任割合が6:4となればBは120万円、Cは80万円を負担することとなり、差額を回収できる。)。
【考え方②】
不貞行為の当事者のうち主たる責任はBにあることから、特段の事情の無い限り、Bの責任を大きいものとみる立場です。
この考え方に従うと、上記ケース➀、②ではCが支払うべき金額はBが支払うべきそれよりも減額されることとなりえます(たとえばケース③では、BはAに200万円を支払えとなるような事例でもケース②においては、CはAに180万円を支払えとなるに留まる。)。
そのため、とりわけケース②の場合には、Aにとっては、考え方➀の場合よりも損をすることとなります。
現在、BとCの責任の軽重に関する最高裁の判例はなく、かつ地裁では判断が分かれる傾向にあります。他方で東京高裁では考え方②を採用したものがありますが、必ずしもこれが一番有力な考え方とも言い切れない状況だと言えます。
したがって、不貞慰謝料の請求に際しては、これらの問題点を考慮の上で解決に向けて進める必要があります。
「財布は別」な夫婦の財産分与について考える
今日、テレビを観ていたら、夫婦それぞれの収入と支出の在り方について、いろいろなやり方が紹介されていました。
今どきは、お互いの収入や貯蓄は知らない、家計の支出については共通の口座にお互いが決めた額を入金し、それでまかなう、というやり方が割と多いとの事でした。
共働きが増えた現在、このやり方は必要以上に相手方に干渉をしないという意味でとても合理的です。また、以前はとても多かった、夫の収入に頼って生活をする家庭において、妻に経済力がないがために夫に意見をできない、離婚をしたくても切り出せないという問題も生じにくいというメリットもあります。
ところで、このような完全に財布は別な夫婦において、離婚問題が生じると、その財産分与はどうなるのかが気になります。
というのも、法律的には、婚姻期間中に夫婦で形成した財産は基本的にすべて夫婦共有財産とされ、お互いで半分ずつを取得することになるのが大原則だからです。
ただし、お互いで何を財産分与の対象に含めるかとか、財産分与の割合を半々ではなく4:6にするとかという合意は可能です。
そのため、財布は別世帯においては、離婚問題が生じた際に
➀離婚に際しても財布は別を貫き、お互いの貯蓄はお互いが取得し、相互に口出しをしないという合意をして解決する
②上記大原則に遡って、これまで維持してきた財布は別システムを放棄し、すべての財産を開示した上で財産分与の話を進める
の二択になると思います。
婚姻期間中は財布は別でもお互い納得していたところですが、いざ離婚になると相手に対する不満や不信感ゆえ、
「実は自分よりも相手の方が収入があって、貯蓄もしっかりしているのではないか?そうすると離婚になる以上は財布は別を維持しなくても良いのではないか。どうせならとれるお金はとってやりたい!よく考えたらそもそも財布は別を言い出したのは相手からだし、何か隠したいお金があったのではないか?」
との考えが生じてもおかしくありません。
さぁ、こうなると本当に大変です。
婚姻期間中に維持していた財布は別システムを放棄し、いざこれまでの収入や貯蓄を洗い出そうとしても、これを求められた相手方が素直にすべてをさらけ出すとも考え難いですし、仮に財産を開示しても、それまでの使途や隠し財産の有無などを巡り、紛争は激化する一方でしょう。
一番最悪なパターンは、財布は別システムを導入し、一方は一生懸命貯蓄をした(たとえば3,000万円)が、他方はほとんどしていなかった(たとえば100万円)場合です。
この場合に、上記大原則に照らして財産分与をすると、3,000万円+100万円=3,100万円となり、これを折半すると1,550万円ずつです。当然、3,000万円を貯蓄した側はたまったものではありません(念のためですが、審判例では、夫婦の一方が多額の貯蓄に努め、他方が散在しまくったケースで財産分与の割合を調整することで結論の妥当性を維持するケースもなくはないです。)。
それゆえ、財布は別システムは、婚姻期間中にうまくお互いを尊重しつつ生活をしていく際には有益ですが、離婚問題となり、上記➀の方法での折り合いがつかなかった場合には本当に血みどろの争いになりそうです。
なので、現在、財布は別システムを採用し、離婚を検討中の方は、財産分与の在り方についても事前に十分に検討されることをお勧めします。
男女間の金銭トラブルと法的解決について
交際中や婚姻中の男女が、関係を解消するに伴い金銭のトラブルになることがままあります。
具体的には、交際中や婚姻中のお金のやりとりについて、「貸したお金」なのか「あげたお金」なのかを巡り、双方の意見が対立することで紛争が顕在化することが多いです。
時には、お互いで借用書を作成していることがあり、その場合には借用書の内容にしたがって貸金を弁済してもらうこととなります。
しかし、ほとんどのケースではこのような借用書は存在せず、貸したのかあげたのかはお互いの認識違いや、言った言わないの問題になってしまいがちです。
このようなケースでよく尋ねられるのは、「同棲中の生活費はほとんどすべて私が支払ってきた。半額、返してもらえないのか。」というものです。
この点、たとえば定職につかない男性を女性が養っていたような場合でも、生活費について貸したことの明確な約束や書面がない限り、女性が負担してきた生活費は男性に対する援助や支援であり、法的には贈与とみるほかありません。
これは婚姻のケースでも同じです。たとえば、女性が専業主婦で男性の稼ぎだけで生活をしていたようなケースでも、婚姻期間中の生活費の半分を女性に求めることはできません。
このように、男女間でのお金のやりとりは、多くのケースでは「あげたお金」と見られるのが実情です。これを覆そうと思うのであれば、できれば借用書の作成をし、これが無理でも貸したお金についてメモやLINEに残しておくことが重要です。
とはいえ、多額の金銭を長年支出してきた側の立場に立つと、これをすべて贈与とされてしまうことに納得のいかないことも多く、それゆえ、後になってトラブルに発展してしまうのだといえます。その際、支出を受けてきた側としても、そのこと自体は事実であるがゆえに、なかなか強い姿勢で「もらった金だから返す理由はない。」と言い切ることもし辛く、事の解決を難しくしてしまう側面があります。
そのため、大切なことはお互いで、お金を貸す趣旨なのか、もらう趣旨なのかを当初から明確にしておくことだといえます。
なお、お互いの認識の相違から生じた紛争を解決するために、一方が他方に「解決金」を渡すことはその手段として十分にあり得ることです。その場合、示談書の取り交わしをし、以後の金銭の請求を一切しないことを明確にすることが大切です。
大切な自分の本質~夫婦別姓や同性婚の問題、ヘイトスピーチ問題から考える~
ここ最近、同性婚を認めない現行法についての違憲判決や選択的夫婦別姓制度に声を上げる市民の活動が活発になるのを見て、日本という社会のうねりを感じています。
私は間違いなく、近い将来、同性婚規定は改正されることになると思うし、選択的夫婦別姓制度も実現すると思っています。それぐらい昨今の市民の考えは「個人の尊重」「多様性」に大きく傾いています。
テニスの大坂なおみ選手が爆発的に活躍し、とてつもなく大きな影響力を持つのも当然です。彼女は自分自身について、日本、ハイチ、アメリカの3つのルーツがあり、それら3つの文化が融合したのが自分であると述べています。
その語り口はとても自然で、とても明確で、とてもスッキリしています。
このような彼女の考え方は若者にも浸透しやすいものでしょう。
本来、人はそれぞれ多様なバックボーンを持ち、ルーツがあり、それがその人それぞれの本質を形成します。
だからこそ誰でも自分の本質を大切にしたいのです。
同性婚だって、誰を愛し、誰と婚姻するかは個人の自由であり、その人の本質にかかわる問題です。その本質を肯定しない現在の法律はやはり個人の自由や尊厳を害しているとしか言いようがありません。
選択的夫婦別姓制度も同じです。自分が生まれもってきた氏を、どうして婚姻という一時で強制的に失わなくてはならないのでしょうか。長年、愛着をもって使ってきた氏をどうして法律が一方的に失わせることが許されるのでしょうか。
いずれの問題も、結局問われているのは同じことだと思います。
他方で、未だにヘイトスピーチが無くなりません。ヘイトスピーチが悪質なのは、特定の属性や特徴、出自を捉え、他人を卑下し、侮辱し、攻撃するものだからです。
誰しも自分の本質やルーツを無条件に見も知らない第三者に傷つけられる義務はありません。
それにもかかわらず加害者は、攻撃することが当然であり、権利であるかのごとくまやかしをいいます。
私は、日本で生まれ日本で育ちました。国籍は韓国です。
そのことに自分のルーツや本質があると常に思っています。
だからこそ、悪質なヘイトスピーチには大反対ですし、個人の本質を無条件に侵害する同性婚を認めない現行法や、婚姻に伴い姓を選択しなくてはならない現行法には大きな問題があると考えています。
何が侮辱で何が問題か~東京五輪・演出案の問題点~
東京五輪開閉会式の統括責任者佐々木さんが発案した演出案について、縷々問題点が指摘されています。
他方で、かかる演出案は別に問題がないとの声もあるようです。
この点、私なりの考えをまとめ、何が侮辱で何が差別になるのかを指摘したいと思いkます。
➀まず、今回の演出案は、女性タレントを豚に見立てたものとのことですが、豚に例えることがどうして侮辱なのか?うさぎなら良いのか?との声がありました。
この点、豚は社会通念に照らし、「怠惰な様子」「肥満の象徴」として受け止められていることは明らかです。それゆえ、タレントの事前の了解なく一方的に豚に見立てることは当該タレントを馬鹿にしたものと言わざるを得ません。
その意味で侮辱として十分成り立ちます。
うさぎについては、かかる意味での否定的受け止め方が一般に成り立ってはいませんので、仮にうさぎに見立てたのであれば問題になり得ないことも明らかです。
②次に、当該タレントが以前、自ら豚に扮するようなコスチュームを着てテレビに出ていたのであるから構わないのではないか?との声がありました。
この点、当該タレントが自らの意思で扮することは当然問題となりません。他方で、タレントの了解なく、その場にもいない状況で勝手にこのような見立てをすることは問題です。過去に一度、豚に扮したことがあるからといって、未来永劫、そのことを了解していることにはならないからです。
③他には、太っていることを前提にテレビに出るなどして活躍しているタレントがいるがその人たちはどうなるのか?という声もありました。
この点も②と同様、本人がそれを良しとしているのであれば当然、問題となりません。指摘の声自体、前提を誤解していると思います。
④まとめ
結局、今回の企画案は、「タレント自身がいない場で、その説明も了承もなく豚に見立てた企画案が発案されたものであり、タレントに対する配慮はまったくなく、むしろ差別、侮辱の意図で構成された。」と見る他ありません。
そうすると、それが本来、内部的なやりとりに過ぎず、告発されたから明るみに出たという経緯は別としても、そのような侮辱的企画を発案した責任者はその責任を問われてもやむを得ないことだと思います。
また、今回の問題はいじめの事案で、「被害者が嫌だと言わなかった」とか、「被害者が前にもそれを了承していた」とか、「被害者がいない場で被害者をコケにする」とかといういじめの実態に非常に似ていると思います。
侮辱、差別については、された側の立場に立って判断すべきは当然ですが、そのような当然のことがオリンピックの演出責任者には備わっていなかったものと思います。
同性婚に対する司法の考え方
ここ最近、同性婚に関する重要な判例が続きましたので、以下、簡単ではありますが、ご紹介します。
【同性婚を認めない法律を違憲とした札幌地裁判決】
2021年3月17日付け札幌地裁の判決は、同性婚を認めない現在の法律は憲法に違反するとしました。
裁判では、法律の規定が憲法24条、13条、14条に違反しないかなどが争われたところ、裁判所は14条違反を認め、違憲の判断をしたものです。
この点、憲法24条は婚姻について、「両性の合意のみに基づいて成立し」と規定していることもあり、異性婚を念頭に置いておらず、異性婚を認めない法律が憲法24条に違反するとはなりませんでした。
また、憲法13条は個人の尊厳や幸福追求権を保障しますが、同条に基づき同性間の婚姻などに関する特定の制度を求める権利が保障されていると解することもできないとしました。
他方で、憲法14条では法の下の平等を定めているところ、法律において異性婚しか認めていないことは立法府の裁量権の範囲を超えたものとして合理的根拠を欠く差別的取扱いに当たると判断したのです。
判決では、異性婚の場合に多々認められている権利や地位を同性婚を希望する者には与えないことの不利益を詳細に論じ、そのような区別は許されないとしたのです。
【同性事実婚の浮気に慰謝料支払いを認めた最高裁判決】
2021年3月19日には、最高裁にて、同性事実婚にあった女性当事者が、パートナーだった女性に対して、浮気をしたことで同性事実婚関係が破綻したことの責任を求めていた裁判で、女性当事者の請求を認めた高裁の判決を指示し、元パートナーに対する請求が確定しました。
いわゆる不貞の慰謝料は、典型的には法律上の婚姻関係にある夫婦の一方が浮気をした場合に問題となります。
不貞行為がなぜ権利侵害になるかについては、婚姻共同生活の維持という権利または法的保護に値する利益を侵害されたからとされています。
そして、法律上の婚姻関係になくとも、これに準ずる関係として、内縁関係にある男女の一方が浮気をした場合でも、かかる権利または利益を侵害されたものとして、損害賠償請求が認められます。
そのような前提状況を踏まえ、同性同士の内縁関係の場合でも、浮気に対する損害賠償を認めたのが上記裁判例ということです。
なお、内縁関係と認められるか否かは、➀婚姻の意思があること、②夫婦同然の共同生活の実態があることと言われます。
その意味では、上記裁判例では、同性同士であっても➀婚姻の意思があることを認め(婚姻の意思があれば足りるので、実際に婚姻届けが受理され得るかどうかは関係ない)、②夫婦同然の共同生活の実態を認めたものといえます。
②の点については、札幌地裁の判決においてもかなり詳しく論じられていましたが、同性愛についての時代の中での国民意識の変化や科学的知見の確立も踏まえ、同性であったとしても夫婦としての実態を観念し得るとしたものと思います。
【まとめ】
このように、司法の判断の中では、同性愛についての理解は前進し、世界基準に近づきつつあるといえます。ところが、国会や地方議会においては、異性婚の中で古くから問題視されている夫婦同姓制度に関し、未だにこれを変えようとしない動きがかなりあります。
私は、この度の上記二つの裁判例を受け、今まで以上に同性愛や婚姻という制度の在り方を多くの人が見つめ直すきっかけになればと願ってやみません。
遺産分割の「期限」について
親族の死亡により生じる「相続」の問題は、遺言があれば遺言で処理し、これがなければ相続人間の遺産分割により処理をすることとなります。
相続人間で円滑に協議が進めば良いのですが、そうでない場合には協議が進まず、いつまでも相続の手続きが終わらないことがあります。
この点、相続に関するルールを定める民法には遺産分割自体の期限の定めが何もありません。その結果、未分割の遺産が何年も何十年も放置されてしまう事態が結構多くあります。
しかし、このような状態はとりわけ不動産を中心に大きな問題となります。
というのも、亡くなった方の名義のままの不動産が残されると、管理が届かず、荒れ放題となり近隣環境に悪影響が大きいからです。
そこで現在、遺産分割の期限を10年に限定する法改正が検討されています。この改正が通ると
病気を理由とした休職と賃金や補償
新型コロナウイルスに限らず、病気で仕事を休まざるを得ない場合、休業に対する賃金は補償されない(支払われない)のが原則(法律上は当然には賃金が生じない)です。
これは、賃金が労務に対する対価である以上は当然のことです。
とはいえ、会社によっては従業員に対する福利厚生の観点から、病気休職に対する補償を就業規則で定めていることがあります。
他には、会社からではありませんが、健康保険の傷病手当金制度の利用により、賃金の一部の補償を受ける余地があります。
また、病気になったことが業務に起因すると認められる場合にはまさに労災ですから、労災保険の申請により、治療費や休業補償給付を受けることができます。
なので、病気で止む無く休業せざるを得ないにしても、そのことに対する具体的な手当がないか、よく確認することが大切です。
なお、つい先日、東京女子医科大学の内部文書に
「法人内の施設において新型コロナウイルスに感染したりして休業するに当たり、その感染原因等が法人からの自粛要請に反した行為にある場合には、休業中の給与は無給とする」
「医療機関を持つ医科大学で勤務する職員は、本来健康な状態で労働を提供する必要があり、感染等を理由に休業することはいわば民法上の『債務不履行』に当たると解釈されます。よってこの場合には、休業期間中には給与を支給しないことが妥当である」
などという内容が含まれていて波紋を呼んでいます。
これらは上記の病気休職の際の賃金支払についての原則論を踏まえたものと思いますが、如何せん、その表現においてあまりにも高圧的であり、人情味にかけたものです。
医療の最前線医療で必死で働いている職員に対する思いやりに欠けるものとして、ナンセンスだと考えます。
私は、労使が一体となって共に事業を展開していくことのできる企業こそ、本来あるべき企業の姿だと常に考えています。経営陣の都合ばかりで労働者を蔑ろにするような企業には存続価値はないと思っています。