論と情、そして証拠
裁判に勝つために必要なことは、論と情、そして証拠です。
論というのは、事件の中身、事実をわかりやすく論じ、法律や裁判例を論理的に活用することです。
他方で情というのは、情熱や感情のことです。
裁判に勝つためには論だけでは足りず、情が必要不可欠だと思います。
逆に論がなく、情だけの状態でも勝てません。
さらにもっと付け加えると、論や情がそろったとしてもそれだけでも足りず、「証拠」が必要です。
「論より証拠」という言葉があるように、あれこれ言う前に、まずは自分の言い分を裏付ける証拠を見せよ。といったところでしょうか。
結局、裁判で一番手堅く勝つためには、過去の事実を情熱的にわかりやすく論じ、法律などを論理的に駆使し、さらに事実を裏付ける証拠を集めることです。
これらが偏った状態ではなかなか勝てません。
ほめたら伸びる
ほめたら伸びる、と言いますが、自分自身はあまりほめられて育った記憶がありません。
ほめたら伸びるのはきっとそれはそうなんでしょうけど、案外ほめられた経験って少ないかもしれません。
ただ、怒られた経験もあまりありません。また、自分のやりたいことを制限されたこともないように思います。
私が自分自身で選択し、その道を進んでいくのをじっと、辛抱強く見守ってもらって今に至る。
そんな感じに思います。
ほめられて育っていたら?
きっと今の道は選択していないのでは、と思います。
毛布に挟まれる
いよいよ寒くなってきて、ベッドに毛布を敷いて寝るようになりました。
もちろん、布団と一緒に毛布もかぶっているので体の上下で毛布にくるまれつつ眠る日々です。
こうすると本当に暖かくて朝になってもベッドから出たくなくなりますね。
冬の毛布って最高です。
ラジオを聞いていたら
朝の通勤時、FM香川を聞くことがあります。
今朝も聞いていたら、相羽高徳さんという方が紹介されていました。
盆栽アートとか、迷路アート?みたいな説明でなんとなく気になって検索してみたら、、、
すごいですね、この人。びっくりしました。
盆栽でこんなことができるなんて!
気になった人は検索してみてください。
いちごの色は何色か
いちごの色は何色ですか?
ほとんどの人は赤、と答えるでしょう。
しかし、葉っぱは緑、根本は白、つぶつぶは茶です。
必ずしも赤が正解とは言えません。
物事の捉え方は人によってそれぞれ違います。多数派の捉え方が常に正解とは言い切れません。
いろいろな物の見方、捉え方があってよいと思います。
しかし、物の見方、捉え方が異なることで他人とトラブルになることもままあります。
たとえば上司が部下に「馬鹿野郎!」と言った場合、労働者である部下はこれを「パワハラだ。」と言うことがあります。逆に、上司は「叱咤激励だ。」と言います。
性犯罪の場面では加害者は「被害者は何も抵抗せず、合意の上だ。」と言い、被害者は「怖くて何も抵抗できなかった。合意などしていない。」と言います。
このように、物事の捉え方の多様性ゆえに社会の中では日々、様々なトラブルが起こっているのです。
トラブルを起こさない、巻き込まれないためには、物事の捉え方は多様で、決して自分の捉えたとおり相手や周りの人も捉えるとは限らないこと、目の前の人がどのように考えているのか、を想像して理解して行動することだと思います。
自分自身はいちごの色は赤だと思っても、これを緑、白などと捉える人もいるのです。その時、いちごは赤だ、と押し付けるのではなく、なぜ緑や白と捉えたのか、相手の話を聞いてみることが大切だと思います。そうすれば、きっとお互い、理解し合えるのではないでしょか。
暑いのか寒いのか
最近、朝晩寒くて、昼暑い、ですね。
冬物のスーツにしましたが、日中はジャケット不要です。
自宅でもまだ半袖短パンで過ごしています。
そのためまだ秋になった実感がありません。
早く冬になって寒い部屋で鍋でもしたいなと思う今日この頃です。
名代「かっぱ」を知ってるか
倉敷の商店街の中に「かっぱ」というトンカツ屋さんがあります。
人気店なので知っている人も多いと思います。
岡山ならではのデミグラスソースがトンカツにたっぷりかかっていて美味しいのです。
岡山のデミかつのソースはお店にもよりますが、どちらかというと濃いのが多いように思いますが、かっぱのソースは全然濃くないです。
昨日は久しぶりにかっぱのトンカツが食べたくなって、午前の調停が11時20分ころに終わったので行ってみることにしました。
裁判所から歩いて向かい、着いたのが11時35分くらいでした。まぁ、12時前だし座れるだろう、と思いきや、すでに満席+待ちが2名!
さすがかっぱ。あなどれません。
せっかく来たので待ちました。
すると次から次に待ちのお客さんが増えて行き、あっというまに待ちが計10人超!
さすがかっぱ。まだ12時前です。
しばらく待って座ると、ほどなくトンカツが出てきました。普通のトンカツ定食はボリュームがすごいので、いつも「ミニ」のトンカツ定食を頼みます。
大男なくせに「ミニ」なんて!と言ってはいけません。ここの「ミニ」は普通のトンカツ屋さんのロースかつと同じくらいのサイズなのですから。
さすがかっぱです。ボリューム満点なのです。
待ったかいあり、やっぱり美味しいトンカツでした。ソースもいいですね。カツにたっぷり絡めてきれいにいただきました。
観光客もたくさん来ていたようで、さすが、「名代かっぱ」でした。
子育てに失敗した
「子育てに失敗した」と、言うことがありますが、これっていったい、どういうことでしょうか。
親が、一生懸命子育てをしたが、子どもが悪さばかりして困る、というケースで使うことが多いような気がします。
でも、そもそも子育てに「成功」とか「失敗」とかってあるんでしょうか?
子育てに「成功」「失敗」があると考えるのは、前提として親の力で子どものことをどうにでもコントロールできる、成長させることができる、という考えがあるように思います。
また、子どものやったことの責任は親にある、という考えも背景にあるように思います。
しかし、子どもって小さいながらに一人ひとり個性があって、自我があって行動するものです。
その子どものことをすべて把握してコントロールできる、いかにでもできる、と考えること自体、間違いのように思います。
きっと、親が子どもに影響を与えることができるのはその子どもの人格形成のうち、一部であって、決してすべてではないと思うのです。当然、どの程度の影響を与えることができるか、受けるかはそれぞれの親子によって異なるでしょうけど、すべてを完全に親が決めることなどは絶対に無理だと思います。
なので、何か子どもが悪さをしたとしても、そのことすべてが親の責任ではないでしょうし、ましてや「親の子育てが失敗したからだ」などと他人に非難されるのもおかしな話だと思います。
もちろん、だからといって親が子どもに何も教育しなくてよい、ということではありません。
あくまで親が子どもにできることは限られているし、だからこそ子どもがしたことをすべて親の責任にするのはおかしい、と言いたいのです。
ところでなぜこんなことを書くかと言うと、先日の佐世保での女児殺害事件の加害者とされる女児の父親が自殺したからです。
どうしてこの父親は自殺しなければならなかったのでしょうか。子育てに失敗したからその責任をとったのでしょうか。
マスコミは過剰に「父親の責任」を言い、「子育ての失敗」を言わなかったでしょうか。
殺人事件自体、非情なことですが、その結果、さらに自殺者が出たことに異常なものを感じます。
「子育てに失敗」なんて誰が決めたのでしょうか。
コメダ珈琲店
今朝は、コメダ珈琲店に来ました。
岡山に初出店してからだいぶ経ちましたが初めて来ることができました。
ゆったりした雰囲気で、コーヒーを飲めて、新聞も読めて、いい時間を過ごせました。
駐車場も多いので今度から仕事の合間の時間調整などに使おうと思います。
ちなみに朝はドリンクを頼むとゆで卵とトーストが無料で付くそうです。朝食は済ませて来たので頼みませんでしたが、お得ですね。名古屋方式?ですね。
味噌カツサンドも、今度ぜひ試してみたいと思いました。
8.6
今日は8.6です。
さて、いったい何の数字でしょうか?
ヒント→単位は㎏です。
正解は→「今日の仕事カバンの重さ」です。
なかなか重たいですね。でも、これくらいの重さになることは結構よくあります。
中身はもちろん、事件の記録(書類が大半)です。
重たいカバンは依頼の重みでもあります。
朝、カバンの重さを測ってみて改めて職責の重さを感じました。