来年の目標
12月になるといつも、その年の始めに立てた目標を振り返り、来年の目標を考えます。
今年の目標は、いくつか達成しつつ、いくつか達成できずに終わりそうです。
すべての目標を達成するのは難しいことかもしれませんが、悔しさと、自分の至らなさを痛感しています。
来年は今年の目標のうち達成できなかった点をきちんと達成し、なおかつさらに新たな目標に向けて頑張ろうと思います。
さて、その来年の目標ですが、すでにいくつか考え、アイデアがあります。新たな物事にチャレンジし、自分の幅を広げるべくいろいろ考えていると新年を迎えるのがワクワクしてきます。
プロのキャッチコピー
よく通る道に、「新車よりも美しく」と書かれた看板があります。
洗車専門店のキャッチコピーです。
誰でも新車が一番きれい、とわかっているのですが、そこにあえて挑戦するようなコピーが洗車屋さんのプロ根性を感じさせます。
「一滴の水も無駄にしない」
これはとある水道屋さんのコピーです。カッコいいですよね。「俺の手にかかればどんな水道も水漏れさせない!」という意気込みを感じます。
今度水漏れしたら間違いなくこの水道屋さんに頼みたいです。
「本なら何でも揃う」
これは岡山でもたくさんある、宮脇書店のコピーですね。やはり本屋の意地を感じます。今日もここで本を買いました。
いろんな分野のプロのお店で、その商売に対するプロ根性の垣間見えるコピーがあるようです。
ところでうちの事務所の場合には
「問題解決の架け橋に。」
が一応のキャッチコピーです。
が、↑↑↑の三つのようなコピーと比べると「まだまだ!」という気がしてきました。
なので、今度また新しいコピーを考えてみます。
それにしても、どんな分野でも「プロ意識」を持って働いている方々はカッコいいものですね!
「自分らしさ」とか「自分」とかを考える。
よく、「自分らしく生きる」とか、「自分らしさを大切にする」
と言いますが、「自分らしさ」や「自分」っていったいどうやって捉えたらよいのでしょうか。
「自分らしさ」に気が付くためには、まずとにかく「自分」を知ることですよね。
「自分」というのは生まれてから今に至るまでずっと一緒の存在(?)です。
表現がおかしいかもしれませんが、今いる「自分」は、ずーっと「自分」なワケで生きている限り切っても切り離せません。
時にはそんな「自分」が嫌になり、時には「自分」が何か分からなくなり、、、
でも最近、今している仕事やその内容は、まさに「自分らしさ」ゆえにできている仕事だし、「自分」ゆえに依頼してくれる依頼者の方がいるのだと気が付きました。
何が言いたいか分かりにくいのですが、他人は自分以上に「自分」を見てくれていて、自分の知らない「自分」を評価してくれているのだということです。なので、これからももっともっと「自分」を発揮することが仕事の上でも、人生の上でも大切なのではないかと思いました。
ちなみに最近ずっと仕事で多いのは離婚や男女問題、交通事故、在日コリアンの案件です。離婚や男女問題は、私は離婚経験こそありませんがそれなりの恋愛経験等に基づいていろいろ共感できたりする面もありますし、交通事故については車が好きだし毎日運転することもあります。在日コリアンというのは言わずもがなですね。
そんな「自分」ですが、自分で思う「自分」は、①ハッキリしている、単刀直入、②頑固、③図々しい、④我が道を行く、⑤慣例無視といったところでしょうか。きっと他にもあると思いますが、これからも「自分」を大切に生きて行こうと思います。
本を読みたい
ここ最近、読書欲求が止まりません。
しばらくおさまっていたのですが、なぜかスイッチが入ったように次々と本を買い、次々と読書しています。
いつものことなのですが、しばらく読書の欲求が続き、ある程度満足すると今度はパタッとその欲求が止まります。
最近読むのは法律関係の本はもちろん、経営の本や、政治関係の本が多いです。
昨日は「安売り王一代 私の「ドン・キホーテ」人生」を買ってみたので早く読みたいところです。みなさんご存じの小売店「ドン・キホーテ」創業者の方の本です。
何か自分の仕事や人生、価値観にいいヒント影響がある予感がしています。
何のために働くのか
毎日毎日、人はなぜ働くのでしょうか。
自分が働くのは何のためなのでしょうか。
もちろん、収入を得て生活をする、というのが第1の答えだと思います。
ただ、私は、「人が働くのは、人を幸せにするためだ」と思っており、それこそが「働くこと」の意味だと思います。
その意味では、世の中に存在するあらゆる企業、仕事は、「人が幸せになるためのもの」だと思っています。
先日のブログでは、人が作り出した「道具」は「人が幸せになるためにある」と書きましたが、そのことと共通すると言えます。
人は、人が幸せになるために働いて、いろんな道具を作り出している。その結果、自分自身も収入を得て、生活をすることができる。
だから私は、毎日一生懸命、働くのです。
最近見ていないもの
ここ最近、TVとフェイスブックをまったく見ていません。
理由の一つは忙しくて時間がないこと。
もう一つには、これら以外にもっと有意義な時間の使い方をしたいから。
これらを見ないようになって、自分の日常生活に不便があるかというと、答えは「全くない」です。
TVもフェイスブックもどっちも便利な近代の道具ですが、自分の生活に必須かと言われるとそうでないことがよくわかりました。
特にフェイスブックは「SNS疲れ」という言葉も出て来てしまったように、本来は人間が「使う」はずの「道具」にかえって「拘束」され、本末転倒な結果になってしまっているように感じます。
昨日の新聞記事にも、デンマークで1週間フェイスブックを禁止した場合の方が、そうでない人々よりも「幸福度」が高いとの調査結果が書いてありました。
フェイスブックは、「自分に何が必要か」よりも「他人が何を持っているか」を気にするようになってしまい、自分自身を見失うようです。
TVもフェイスブックも人間が作り出した「道具」であり、そもそもこの世に存在するあらゆる「道具」は人間が幸せになるために存在するべき、と思っています。
車も洗濯機も、ストーブもエアコンも、携帯も。
それなのにこれらの道具を使うことでかえって人間が「幸福でない」状態になっているのだとしたら、それはその道具を使うことや使い方を考え直すべきなのだと思います。
きちんと一人一人が、「自分に必要な道具か」「それを使うことで自分は幸せになれるのか」をよく考えた方がいいように思います。
ラストスパート
明日から12月ですね。
一年を振り返る時期かもしれません。
今年は、公私ともにとても忙しく、多様な出来事のあった一年でした。
かつ、これらの出来事をなんとかすべて乗り越えることができたと思います。
そんなことを思いながら、残り一カ月、充実した日々を過ごしたいと思います。
穴の開いたバケツ
仕事で子ども絡みの事件を取り扱うことがあります。
子どもの事件は、親との関係が常に問題となります。
そしていつも思うのが、子どもの心は穴の開いたバケツであり、常に愛情を注ぎ続けても注ぎすぎることはない、ということです。親としては愛情を十分に注いだつもりでも、子どもからするとまだまだ十分とはいえず、時とともに失われていってしまうから、どんどん次から次へと注いでもらう必要がある、ということです。
そのように、子どもと親の愛情の絆は終わることのないものだと、そう感じます。
親も親でとても大変なのですが、子どもも子どもで自分の穴の開いたバケツに常に愛情が注がれ続けるのを待つしかないのです。
自分の”ウリ”
自分の”ウリ”は何か?
常に自問自答していました。
離婚事件か?労働事件か?刑事?少年?交通事故?障害者案件?
以前から、グルグルグルグルずっと自問自答していたのです。
そんな中、とある親しい方からこう言われました。
「頼りになりそうな(なる)ところでしょ!」
!!
そうです。今まで自分でグルグル考えていたのは、「どんな分野が得意か?」ということにとどまっていたのです。
しかし実際には、「頼りになるかどうか」が重要なんだと気が付きました。
ただ、考えてみればそんなことは当然で、弁護士に自分の悩み、トラブルを相談、依頼するのですから、「頼りになる弁護士に相談、依頼したい」ですよね。
でも、その一言でスッキリした気持ちになりました。
今後は堂々と、「自分の”ウリ”は誰より頼りになる点です!」と言うことに決めました。
「約束」と「仁義」
人と関わることの多い仕事のためか、法律家という仕事のためか、「約束」とか「仁義」とか大切だと思っています。
「約束」というのは当然、他人との取り決めや合意のことをいい、契約も一種の「約束」です。弁護士事務所への相談予約も「約束」と言えます。裁判所との関係では、指定された裁判の期日について、これを弁護士が了解すれば「約束」と言えます。
「約束」は当然、守るべきものです。約束に反すれば怒られたり、非難されたり、場合によっては損害賠償を請求されたりします(特に「契約」の場合)。
これに対して、「仁義」というのは分かりにくいし、何か音の響きや映画などのイメージからすると「ヤクザの世界の決まり事」のように感じるかもしれません。
しかし、私が言いたい「仁義」というのは「お互いに何かハッキリした約束、合意をしたワケではないが、これまでの人間関係や信頼関係に基づいて相手に対して自分から自然に配慮したり、果たしたりすべきもの」をさします。
具体的には、「Aさんにはこれまで世話になってるから今度何かご馳走しよう」とか「信頼できるBさんの頼み事だから自分の時間と労力を割いてでも力になろう」とか「Cさんが紹介しれくれた案件だからCさんの顔に泥を塗るようなことをしないようにしよう」とか、そういう自分の中での自然な配慮のようなものです。
この場合、決してAさんとの間で、何かご馳走することが「約束」されたワケでもないし、Bさんとの間で力になることを約束したワケでもないし、Cさんに対して泥を塗らないようにします、と説明するワケでもありません。
「約束」の場合にはカタチがハッキリしていますが、「仁義」の場合にはそうではありません。だけど世の中というのはなにもハッキリとした形のある「約束」だけで成り立っているのではなく、あいまいだけど個人個人の中にある「仁義」というものがあるからこそうまくいくのだと思っています。
しかし、最近は、ドライな世の中になってきたのか、こういう「仁義」が減ってきているようにも感じます。
そうすると、「約束をしていない以上は何も自分は果たすべき義務などない」となってしまい、大変ギクシャクした社会になってしまうと思います。